三日月とコーヒー


 三日月が空に浮かんでいた。
 触れれば切れてしまいそうなほどに冴えたそれは、確かに地上を照らしている。
 月光を受け、男がひとり、ベランダに立っていた。
 長髪をみつあみにし、背中にたらしている。
 整った顔とあいまって、スーツを着たその姿はまるでホストのようだ。
 今は後姿しか見えないが。

 紫煙が夜空に上っていく。
 顔は少し上を向いていて、その印象的な金色の瞳には何が映っているのか。
 よく似た色の月か、ゆれる煙か、散らばる星か。
 常人には見えないなにかか。

 彼女は確かめるように、ベランダへ続く窓を開ける。
 吹き込んでくる冷気に、ぶるっと体が震えた。
 相当ぼんやりしているのか、窓を開けた音でもこちらを振り向かない。
「来栖?」
 背中に向かって問いかけるように声をかけると、ゆっくりと後ろを向いた。
「なんだ、お前か」
 軽く笑いながら、吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し込む。
 こちらに気を使っているらしい。
 その何気ない行動に、ふっとうれしくなった。
「寒いでしょ? コーヒー、飲む?」
 白いマグカップを差し出す。
 来栖がここに来てから調達したもので、彼専用のもの。
 女はめったに使わないだろうシンプルなデザイン。
 飾り気の一切ない、ただ白いだけのマグカップ。
 そこに、黒い液体はよく映える。
「ああ、ありがとう」
 来栖に渡したのは砂糖もミルクを入っていないブラックコーヒー。
 彼女が自分のために用意したのはカフェオレだ。
 赤いタータンチェックのカップとあいまって、最初は子供っぽいとからかわれていた。
 からかうのに飽きたのか、認められたのか、最近ではそれもなくなったが。

 冬にはまだ早いとは言え、秋の夜はよく冷える。
 手を温めるようにカップを包み込んだ。
「月が綺麗だな」
 ベランダの柵にもたれかかりながら、来栖は状態をそらす。
 髪がだらりと外にたれた。黒髪だが、まるでラプンツェルのように。
 その目は、月を捉えていた。
 言葉につられて、彼女は空を見る。
 確かに、今日は月が綺麗だ。
 三日月ではあるが、珍しいほど輝いている。
 個人的には『名月だ』と言ってしまいたいほどに。
 その姿に引き込まれ、彼女は月を見つめた。
 居候の男の瞳と、よく似た色の月を。
 ただ純粋に、美しい、と思う。
 ふと思い出した。

 来栖に初めて会った時、その目を美しいと思った。
 その言葉が、自然と心に浮かんだのだ。

 いつの間に上体を起こしたのか、来栖は隣でコーヒーをすすっている。
 だらしなく柵にもたれかかりながら。
 かすかに吹いた夜風が、白い湯気をさらっていった。
「今日は冷えるな」
 返事をしなかった彼女に文句を言うでもなく、独り言のように来栖がつぶやいた。
「そうね……」
 未だに月に心を奪われていた彼女は、若干上の空で答える。
 来栖はコーヒーを飲むのをやめ、家主である女性を見つめた。
 何かを考えているかのように、静かに。
 彼女がはっと気がついた時、来栖が間近まで迫っていた。
「コーヒーありがとな。おかげで凍えずにすんだ」
 肩を抱かれるように、無理やり視線を合わせられた。
 美しい瞳に見つめられ、思考が停止する。

 胸が高鳴る。
 こんなに静かな夜だ。聞こえてしまうのではないか。
 そう思うと、彼女は自分の頬がほんのり赤らむのを自覚した。
 冷たいと思っていた風が、少しだけ心地よくなる。
 マンションの小さなベランダ。
 物干し竿と室外機という、ロマンの欠片もない場所なのに。
 来栖が口を開いた。
「でも――」
 一拍間をおき、続ける。
「コーヒーも悪くないが、キスの方がいいな」
 金の目が近づく。
 タバコの香りが鼻をくすぐる。
 そして――
 耳元で、小さな囁きが。

「君をあ」

「何をしているんですか!」
「ぐあ!」
 突如室内から飛び込んできた3号の角と柵に、来栖が見事に挟まった。
 カップは室外機の上に置かれており、無事だ。
「何しやがるんだ!」
「セクハラですよ! 変な菌がうつったらどうするんですか! さ、今のうちに中へ!」
 3号に促され、彼女はひとつうなずくと、そそくさと退散した。
 ベランダでは、二人がまだけんかをしている。
 その様子に、無意識にため息が出た。

 安心なのか、落胆なのか、意味はわからなかったが。

後書き

ツイッターのキャラがキザったーにて
5分以内にRTされなくても『月が綺麗だね。コーヒーも悪くないが、キスの方がいいな…君を愛してる。』と囁く来栖を描いて下さい
とのお題が出たので書いてみた。